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本稿では、1849年から1865年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この期間の最も大きな出来事は南北戦争であり、アンテベラムと呼ばれる戦前の時代には南北戦争の原因となる多くの重要な出来事が起こった。 1840年代から1850年代のアメリカ合衆国は、工業化と輸送手段の変革によって北部と中西部の経済が変化し、全体として経済と文化の変動を経験していた。移民も北部に偏って増え続け大きな文化的変化をもたらしていた。 1849年にカリフォルニア・ゴールドラッシュが起こったことで、ウィルモット条項で提起された奴隷制問題を議論の前面に押し出した。カリフォルニアをアメリカ合衆国の州として受け容れることは1850年妥協で落着した。この妥協では米墨戦争の結果獲得した領土の残り部分についてその政治的姿勢が人民主権によって決定されることとされた。逃亡奴隷法に関する議論が続き、党派抗争が常のことになった。 1854年、カンザス・ネブラスカ法で新しい州のそれぞれが奴隷制に関する姿勢を決められることとして、ミズーリ妥協を無効にした。カンザス州で奴隷制擁護派と反対派が入植してきて対立し、結果的に奴隷制反対派側が勝ちを収めたことは、共和党の誕生で兆候のあった抗争に火を付けることになった。1861年までにカンザス州がアメリカ合衆国に加盟し、議会の勢力バランスが崩れていた。 1860年にエイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた後、その年遅くから1861年前半に掛けて、南部の11州がアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、2月9日にはアメリカ連合国政府を樹立した。南軍のP・G・T・ボーリガード将軍がサウスカロライナ州にある北軍の基地サムター砦の部隊を砲撃したときに、南北戦争が始まった。 それに続く4年間、国内は奴隷制と州の権限に関わる長く深刻な問題で分裂し、アメリカ合衆国の歴史の中でも最も暗い時代になった。都市が成長し工業化の進んでいた北部州(北軍)が、主に田園の農業地帯である南部州(南軍)を最終的に破ったが、双方共に60万人から70万人が殺され、南部の土地の大半は荒廃した。1860年の国勢調査に基づけば、この戦争で13歳から43歳までの白人男性の8%が死に、その比率は北部では6%だったが、南部では18%にも達した。最後は奴隷制が廃止され、アメリカ合衆国は一つに戻った。 == 経済と文化の変化 == === 新しい経済の発展 === 1840年代までにアメリカ合衆国の経済は大きな変化を経験していた。アレクサンダー・ハミルトンのビジョンに従い、工業強国への道を歩んでいた。それ以前の時代は動きが遅く小さく鏤められた田園社会だったがこれが消えて行き、トーマス・ジェファーソンが描いた小農と職人からなるビジョンは終わりを告げつつあった。ヘンリー・クレイの提案したアメリカ・システムが連邦政府の予算化したナショナル・ロードやエリー運河など他のプロジェクトで交通手段を革新していた。この時代に新しい鉄道が運河と直接競合を始め、鉄道会社は運河よりもかなり安い運賃かつ短時間で物品を運んだので、新たな交通革新が起こった。さらに鉄道は水路とは必ずしも結びつかなくても新線を建設していった。「貴族」と呼ばれることの多かった鉄道会社所有者は優先株式の販売と州政府の援助によって路線の拡大を手当てできた。多くの議会は鉄道会社に公有地を安く売り、州の金で鉄道会社の株を購入することで、州内に産業革命の経済的成功をもたらすことに熱心だった。間もなく連邦政府も鉄道会社との土地取引を始め、交通の発展を助長させた。市場に送られる商品の生産についても別の革新が起こった。建国当初は熟練した職人が自分の仕事場で自ら個別に商品を製造していた。1840年代には、この1個生産の仕組みが、個々に生産された部品を異なる場所で組み立て、商品として完成される分業生産の仕組みで置き換えられた。この分業生産は1つの場所で1つの部品を造り続けることで効率化が進んだ。イーライ・ホイットニーが普及させた互換性のある部品を用いる方法で、労働者達が1つの場所で部品を組み立て商品にする工場生産の仕組みが始まった。マサチューセッツ州ローウェルにあったような初期の工場は主に女性を雇用していた。1860年代までに工場生産の仕組みが隆盛してきたことで、熟練職人の時代は終わった。それでも工業化の大きな時代は南北戦争後まで待たなければならず、工業生産の大半はまだ小規模な工場での製造に頼っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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